最終更新日 2002/08/02
グアテマラ<その3>
誰やねん?屋須弘平!
屋須弘平とは初めてグアテマラに来た日本人である。江戸後期生まれでこんな豪気な生き方をした人がいるということに驚嘆せずにはいられない。
★屋須弘平伝年譜
西 暦 日 歴 地 名 略 伝 1847年2月12日 弘化3年12月27日 藤沢 屋須尚安(蘭学・医者)の長男として藤沢に生まれる。
父からオランダ語を教わる。1863年 文久3年 江戸 江戸に出る。
叔父から漢学、真田信濃守の侍医村上栄信から医術を学ぶ。横浜 フランス人エームリエから医学、天文学を学ぶ。 全国歴遊 京都、土佐(関西歴遊) 1868年 明治元年 仙台 戊辰の役のため帰郷途中、仙台藩の軍傷病兵の手当。 藤沢 帰郷し藤沢にて3年ほど医業に就く。 1871年 明治4年 横浜 上京。弟の安平とともに横浜のフランス語学校に入学。 1873年 明治6年 外務省より渡米の免許(渡米県令)を得る。 1874年 明治7年12月9日 金星の太陽面通過。
横浜でメキシコ観測隊の通訳をつとめる。1875年 明治8年2月2日 メキシコ・シティ メキシコ隊長ディアス氏に頼み、天文学を学ぶためにメキシコへ向けて出港。
中国→インド→スエズ運河→イタリア→フランス→メキシコと10ヶ月間の船旅の後、11月18日、メキシコ・シティに到着。ディアス氏に伴われ、日本の着物を着てレルド・デ・テハダ大統領に会う。1876年 明治9年 ディアス邸に寄宿し、天文学校に通う。
ポルフィリオ・ディアスのクーデターが起きる。レルド・デ・テハダ大統領はアメリカに亡命。1878年 明治11年11月 グアテマラ・シティ ディアス氏グアテマラ駐在公使に任命される。ディアス氏の息子と一緒にグアテマラに移る。
写真館で見習いとなる。1881年 明治13年 グアテマラ市クリスト街に写真館を開設。グアテマラ大統領、大司教の肖像画写真を焼増し大繁盛。
大きな店に移り、スタジオを建設。1883年 明治16年 立ち退きさせられ、オルテガ神父の家に写真館を開設。
12月27日キリスト教の洗礼を受ける。
ホセ・ドミンゴ・ノリエガの代父となる。1889年 明治22年5月15日 グアテマラ・サンホセ港 日本に向けて出発。アカプルコ、サンフランシスコ、ホノルルに寄港。 明治22年6月30日 横浜 14年ぶりに帰国する。 藤沢 帰郷。母と姪を連れ、上京。 東京 東京築地の教会の近くで写真館を開くことを計画。 明治22年11月16日 再出国 日秘鉱業株式会社(代表、高橋是清)の秘書兼通訳としてペルーのカラワクラ銀山に向かう。 1890年 明治23年1月24日 ペルー・カラワクラ 渉外係と助監督を務めるが、鉱山が廃坑であることがわかり、6月に解散。 明治23年8月7日 グアテマラ・サンホセ港 帰りの船をグアテマラのサンホセ港で下りる。 明治23年 グアテマラ・シティ 写真館を開設。 1891年 明治24年11月26日 マリア・ノリエガと結婚。 1895年 明治28年 アンティグア アンティグアに移り住み、写真館を開設。 1916年 大正5年 病床に就く。スペイン語で手記を執筆。 1917年 大正6年2月28日 70歳で死去。
屋須弘平の眠る共同墓地 屋須弘平の墓 屋須弘平は今、アンティグアの共同墓地に眠っている。何度も塗りかえられているのか、墓石は白くてきれいだ。日本人の先客があったのか、小菊が供えられていた。
アンティグアの中央公園に面したカフェ・コンデサ横の本屋で屋須弘平の写真集を販売している。またCIRMA(Centro de Investigaciones Regionales de MesoAmerica)の図書室には屋須弘平の作品が展示されている。
屋須弘平の写真集 CIRMA CIRMAの図書室にある作品
屋須弘平を研究している友人の手伝いでアンティグア在住の屋須の子孫宅を訪問した。屋須弘平の遺品を撮影し、リスト化するためだ。遺品は予想以上に保存状態がよく、戸棚にきちんと整理されていた。ネガの大半はすでにCIRMAの管理下にあるのであまり残っていなかったが、古い写真や几帳面に書きこまれた日記など、興味深い品々が残されていた。
硯箱
仏和辞典
洗礼に用いたもの
カメラ
旅行用の箱
はさみ
すり鉢とすりこぎ ガラスネガたて