最終更新日 2004/04/09
ひとまずこの旅の終わりに
<2004・2・27掲載>
あなたと私はどこで出会いましたか。
あなたと出会った私はどんなだったでしょう。
あなたと私はどれくらいの時間を一緒にすごしたのでしょう。
そのとき私は、サンティアゴで日本からの荷物を待っていたのでしょうか。ブエノス・アイレスで風邪をひいて寝こんでいたのでしょうか。クスコでインカ丼を食べていたのでしょうか。サルバドールで人目もはばからずに泣いていたのでしょうか。キトで酔っぱらっていたのでしょうか。それとも、シウダー・ボリバルで働いていたのでしょうか。
一緒にすごした時間が長いほど、また会えるとわかってはいても、別れはつらくなります。さすがに泣くことはずいぶん少なくなったけれど、こっそり出ていくつもりだったのに、みんなに盛大に見送られて泣きそうになったり、先に泣かれて、泣かないつもりが泣いてしまったりしたこともありました。
ほんの少ししか一緒にいられなくて、もっとわかりたかった人と別れるのもつらいものです。本当は抱きしめたいのに照れくさくって、いっぱい言いたいことがあるのになにも言えなくて、ありきたりの素っ気ないさよならと握手を交わすだけで精一杯で。それだけの価値が私にあるなら、あなたにまた会えると心の中で自分に言い聞かせていました。
今回の旅は、2001年11月10日、スペインから始まりました。長期入院か、南米への旅か。内にこもるか、外に出るか。いずれかの選択に迫られた私は、自分自身の再生を賭けて荒療治を選んだのです。
1998年9月から翌年6月までマドリッドに留学していました。ずっと長かった髪を切って渡西して以来、髪を伸ばしたことはありません。それまでの私は精神的にも経済的にも他人に頼っていて、まるで座敷犬のように誰かの帰りを待って暮らしていました。髪を切って日本を出ることは、座敷犬だった自分との訣別でした。大げさかもしれないけれど、私にとって髪を切るということは、その決意を新たにするための自分なりの儀式であり続けています。
2000年9月、7ヶ月ぶりに中米から日本に戻ってきた私は、誰にも頼ることなく生きていかなければなりませんでした。けれど、退屈以外のすべてから守られてきた時間があまりに長すぎて、精神も身体もすっかり萎えてしまっていたから、すべての刺激が過剰なまでに痛いものに思われてなりませんでした。
それでも、次の目標である南米に向けて働き始めました。実家のある市内のいくつかの小学校をまわって、子供たちにパソコンの使い方を教えました。いわゆるIT教育というやつで時給がとてもよかったからです。
20年ぶりに実家のすぐ近くにある小学校に行きました。驚くほど子供が少なく、ひっそりとしていました。私が通っていたころ、1学年に40人学級が7クラスもあったのに、今では30人のクラスがたったひとつあるだけです。
なによりも気になったのは、子供たちの元気のなさです。目がきらきらしていたのは養護学級と日系ペルー人の子供たちだけでした。子供に自分の元気のなさを感染させるわけにはいきません。それにしても、カラ元気をむりやりふりしぼって教壇に立っている私よりも、あの子たちは元気がありませんでした。
彼らの親である、大人たちのほとんども楽しそうではありません。私には、やりたくないことをなんとか続けるために責任を負っているように見えます。つまり、やりたくもない仕事を辞めないために家族を持っているように思えます。大人たちは"子供のために"働いていて、子供は大人が"嫌な仕事を続ける理由"そのものなのです。元気のない大人の楽しくない理由を転嫁されている子供たちが元気であるわけがありません。
養護学級にたっちゃんという子がいました。彼の小さな手に自分の手を重ねて一緒にマウスを動かしながら、幼児用のソフトで遊んでいたときのことです。いきなり私の方を振り返って、うれしそうに足をぶらぶら揺らしながらたっちゃんが言いました。
「先生、髪の毛切った」
びっくりしました。たっちゃんは自分の名前も覚えられません。その子が1週間前より私の髪が短いことに気がついたのです。涙が出ました。「そんなこと気にかけなくていいから、自分の名前覚えようよ」と思いながらも言葉にならず、ただ彼の手を握ったまま泣いていました。
その半年後、私は外に出られなくなりました。体温の調節や目の瞬きさえもままならず、なにを食べても味がしなくなりました。どんなに言葉を尽くしても誰にもなにも伝わらない気がして、話すことをあきらめていました。精神安定剤を飲めないお酒で空の胃に流しこんで、ひたすら眠ってばかりいました。
タイミングの悪いことに、特に仲がよかったわけでもない中学のときの同級生にいきなり家にあがりこまれたことがありました。彼女は誰の話も聞こうとはせず、自分の好き勝手なことばかりをしゃべり続けていました。言うことに逆らわずに子供を育てていればいいと、ずっと夫から相手にされなかったのだと後で人づてに聞きました。彼女は飼い殺しの座敷犬のなれの果てでした。
寝たきりになるまで、IT以外にも仕事をしていました。往復4時間の通勤途中、村上春樹の『ノルウェイの森』をくりかえし読んでいました。その中では、正常とされる人がおかしい者、異常とされる人がまっとうな者として描かれています。主人公ワタナベくんの周りで、まっすぐな人たちは、次々に自ら死んでいきます。なんの救いもありません。
正気と狂気の狭間を私が漂っているとき、珍しくテレビをつけるといきなりツインタワービルが崩壊していました。缶詰のアスパラガスみたいに青白い私は、破片と一緒に落ちていく人々を見た瞬間、南米に行くことを決めました。周りにすすめられるまま、長期入院を考えていた矢先のことです。ひきこもってからすでに半年が経っていました。
今でも右手の人差し指が痺れています。これは凍傷の後遺症です。2002年4月、アルゼンチンパタゴニアのバリローチェで遭難しました。紅葉を見にいって突然の吹雪に遭い、たった2時間で膝まで雪が積もりました。レンジャーに救助され山小屋にたどりついたとき、着ていたものを全部脱がされました。すでになにも感じなくなっていたらしく、自分ではわからなかったのですが、全身びしょぬれだったのです。手も足も凍傷を負い、体温が戻るまで3日かかりました。あと3時間遅ければ死んでいたのだそうです。
この2年4ヶ月、たくさんのことがありました。スペインで強盗、ボリビアで暴動、ベネズエラで拘束、コロンビアで盗難。そして、たくさんの人と出会いました。愛したことも憎んだことも、すべては意味があったのだと思います。自分にとって要らない選択肢を、ひとつひとつなくしていくために必要な時間でした。ほんのわずか、生涯守っていくべきものだけが手元に残っています。右手の人差し指がびりびりするたびに、生きていてよかったと素直に感じます。
アンデスを自分の足で越え、アマゾンに船で分け入り、南米大陸にあるすべての国を旅しました。そして最後に、ベネズエラでは森の民であるヤノマミ族とジェクアナ族を、コロンビアでは山の民であるコギ族とアルワコ族を訪ねました。先住民である彼らは、私たちと同じモンゴロイドです。原始共産制が理想の社会と信じて疑わない私には、あこがれの人々でもあります。
彼らは全身から強烈なまでの生命力を放ち、眼に強い光を宿していました。彼らひとりひとりが強い生き物であることは一目で明らかでした。それは自然のサイクルに従い、自然の一部として生きている証なのだと思いました。電気のない村で満天の星空を仰ぎながら、彼らのように精神にも身体にも野性の力をみなぎらせて生きようと心に決めました。
旅はこれからもまだまだ続くのですが、ひとまずこの旅の終わりに伝えたいことがあります。
旅に出てよかった。あなたに会えてよかった。この広い世界であなたと出会えたことと、あなたと私が今こうして生きているということに深く感謝します。ありがとう。あなたと会えてとても幸せです。
2004年3月3日、帰国します。
2004・2・26 ベネズエラ・シウダー・ボリバルにて脱稿
P.S.5月まで日本にいます。サイトとメールマガジンのオフ会もかねて、京都、東京、そしてリクエストが多ければ名古屋でも宴会やります。日本にいるやつ、飲もうぜ!