最終更新日 2004/02/27
SOMEWHERE I BELONG
<2004・1・2掲載>
仕事の打ち合わせが入ったので帰国することになった。2月のカーニバルが終わったらいったん日本に戻る。ガイドブックの改訂取材と旅行サイトへの旅行記執筆の打ち合わせだ。ついでに京都と東京でうちのサイトとメルマガのオフ会もやるし、会っておかなければならない人にはかたっぱしから会う。どうせ帰るのなら、ぜっかくの機会は最大限に生かす。
制服を着ていたころ、私が一番恐れていたことは、くだらない大人になり果ててしまうこと。疲れた顔で貨物のように詰めこまれて、定年まで毎日満員電車に揺られて老いぼれていくのはごめんだった。会社が終わってからも同僚とばかみたいに演歌がたれ流されている店で愚痴をこぼしながら、うまくもない酒を飲むのも絶対に嫌だった。今だってその気持ちはひとつも変わっていない。
ベネズエラのサン・クリストバルからサン・アントニオ・デ・タチラに向かうバスで『マトリックス2』をききすぎた冷房に震えながらぼんやり見ていた。ビデオはもちろん海賊版で、全然たいしたことのない映画だったけれど、バックに流れる音楽が衝撃的にかっこよかった。エンドタイトルで誰の曲か確かめようとかまえていたら、本編が終わるや否や余韻もくそもなくビデオは切れた。
国境を越えてコロンビアに入り首都ボゴタに着き、タワーレコードに直行した。サントラを試聴してその曲をプレイしているバンドをつきとめ、彼らの最新アルバム『METEORA』を何度も繰り返し聴いた。このときから、リンキンパークは私にとって、なくてはならないものとなった。そんなに好きならその場でCD買えよと思うだろうが、赤貧洗うがごとき貧乏ゆえオリジナルが高く、ベネズエラはカラカスでコピーを見つけて大喜びで買ったのは、実に4ヶ月後のことだった。コピーはたったの1ドル。以来、毎日聴いているがあきない。
流行とか世間体とかそんなものにまったく左右されることなく、私は自分が好きなものが好きだ。それは今も昔もまったく変わらない。無理して若ぶるわけでもなく、リンキンパークを素直に認めることのできる自分にほっとする。
人生の節目ごとにいちいちつまずいた。受験に失敗してしょうがなく行きたくもない大学に通い始めた私を、友達がよく当たると評判の占い師のところに連れていった。占い師は私の手相と生年月日を見比べて言った。「あなたほど結婚に向いていない人はいない」一緒に行った友達は、大学を出て2年ほど勤めてすぐに高校の同級生と結婚し、○○さんの奥さん、××ちゃんのお母さんと呼ばれているが、自分自身の名前を剥奪されたことに気づくこともなんの疑問を抱くこともなく、専業主婦として生活している。その占い師は評判通りよく当たるのだろう。私は幸いにして自分自身の名前のままで生きている。
今、野戦病院の執刀医みたいな心境にある。あまりにいろんなことがありすぎた。しかも、野戦病院にはひどい状態の患者しか担ぎこまれてこない。私のところにぴんぴんした健康そのものなやつが担ぎこまれてくることなどないのだ。目の前の現実に無駄な感傷を交えず、ただ淡々とやりすごすことがずいぶんうまくなった。起こってしまったことを後悔したところでしょうがない。肝心なのは目の前に横たわっている患者の、撃たれてあいた胸の穴や吹っ飛ばされてもげた足の大きな傷に対して、いかに最善の処置をするかということだ。たとえ頭の半分欠けたような重傷者が一人、二人死んだところで、泣いている暇なんてない。どんどん運ばれてくる怪我人に息継ぐ間もなく、常に最善の対処をし続ける。生きるということは、きっとそのようなものなのだと思う。
昔、友達の友達が今となっては芥川賞作家の町田康と同棲していた。まだ彼がパンクロッカー町田町蔵だったころのことだ。ある日、二人の部屋にお金も食べ物もなくなってしまったときのこと。当然、彼女が働きに出ようとすると町蔵は止めた。「働いたらあかん」もう食べるものがなにもないのにである。なおも彼女が働きに出ようとすると、またも町蔵は止めた。「働いたらあかん」ついに彼女はそんな生活に耐えられずに愛する彼と別れた。
先日、この話を他人にしたところ、どうして「働いたらあかん」なのかわからないと言われて驚いた。もしかしたら、世の中のたいていの人がこの町蔵の言葉が理解できないのかもしれない。私には町蔵の気持ちがよくわかる。彼にとってお金というものは、彼の創造した作品への対価として得るものでなければならないのだ。"働く"ということは、他人に忍耐と忠誠を捧げることであり、労働力を搾取されることにほかならない。彼にとってそれはまさに悪魔に魂を売るのに等しいことなのである。
吉本ばなながエッセイの中で町蔵を絶賛していた。町蔵は迷わないから、かっこいいというようなことが書かれていたように記憶している。彼女がほめているのは、町田町蔵として、そして町田康として、彼が貫いた姿勢であり、出した結果である。そこに至るまでの過程では、町蔵だって"働く"かどうか、うんと迷ったはずなのだ。自分だけならともかく、愛する女がおなかをすかせているのを見ているのは、彼だってつらかったはずだ。
自宅にたむろしていたアーティストの卵たちの多くが行方不明になったり、自殺したりしてしまったというようなことを中島らもがエッセイに書いていた。町蔵も認められるまではそんな卵の一人だったはずだし、彼らと町蔵の間にはほんの紙一重の違いしかなかったかもしれないのである。誰が認められて、誰が認められないのか。それは結果が出る日が来ないことには誰にもわからない。
ペルーのクスコでMさんと出会った。私は一目で、彼女が日本で心を病んでいたであろうことを感じとった。彼女と同室になった私は言った。「私、鬱でしたよ」すると彼女は鬱で会社を辞めて、ずっと行ってみたかったマチュピチュに来たのだと言った。マチュピチュから戻ってきた彼女はとても満足していた。彼女が帰国するとき私は言った。「Mさん、まあなんとかなりますから」
クスコから日本の彼女にメールを出した。折り返し、彼女から真っ白なメールが来た。なにも書かないまま、間違って送信しちゃったんだなと思った私は、返事を待っていた。でも、待っても待ってもちっとも返事が来なかったから、また出した。すぐにメールは宛先不明で返ってきた。PCの画面を見つめたまま、肺の奥まで深く深く、息を吸いこんだ。そうしないと叫び出しそうだった。悲しくてたまらなかった。その夜は、真面目で心優しい彼女を思って泣いた。
象牙の塔に長いこといた。研究室に時々ぶらっとやってくる先輩、深津さんとタランティーノをはじめ、いろんな映画の話をした。当時、私は大学よりも映画館にいりびたっていた。私は映画を見たり本を読んだりするために、深津さんはとにかく芝居をやるために、大学に籍をおいていた。彼が研究室に顔を出すのは必ず公演前で、一枚でも多くのチケットを売るためだった。98年私がスペインに発つ前に、深津さんは岸田國士戯曲賞を受賞した。
遠いところにいる私は深津さんの芝居を見にいけない。どうしているんだろうかと彼の主催している劇団のホームページをのぞいてみた。あいかわらずナポレオンフィッシュっぽい面立ちをした彼の近影には、「宵越しの金は持たない」と本人の言葉が添えられていて、やっぱり今も金ないねんなあと笑った。金はなくとも好きなことをしている彼はとても幸せそうだ。彼が芝居をやり続けているという地球の裏側からの消息は、私にとってなによりの励ましになる。
暑い日だった。胸のあたりがあまりにぬるぬるするので、手をあててみると血であった。したたり落ちるほどのおびただしい血にぬれた手のひらをじっと眺めた。痛みはまったくない。こんなに血が出て、生きている人はまずいない。それでは私は死んでいるのだろうかと考えていたら目が覚めた。夢だった。
コロンビアとパナマの間にダリエン国立公園というジャングルがある。南北アメリカ大陸を縦断する、パンアメリカンハイウェイはここで寸断されている。ジャングルの中の道なき道を、ガイドを雇いながら1週間、徒歩とカヌーで抜ける。ゲリラの潜伏地帯であるため、治安は最悪だ。過去、何人もここで行方不明になっている。コロンビアのシウダー・ペルディーダで9月に8人の外国人観光客が誘拐され、現在も7人が拘束されていることも、2001年2月から誘拐されていた矢崎シーメル副社長が、つい最近射殺体となって発見されたことも、百も承知のうえで、ダリエンギャップを陸路で越えることを考えている。
父親が過労死した。まだ制服を着ていた私は、命とひきかえにするほどに大事な仕事なんてあるはずがないと思った。にもかかわらず、私も彼と似たような過ちを犯そうとしているのかもしれない。しかし、日本に帰って仕事をいったん引き受けるからには、勝手にくたばるわけにもいかない。
"SOMEWHERE I BELONG"は、リンキンパークのファーストシングルとなった曲のタイトルである。私が一番得意なのはもちろん日本語で、それ以外にスペイン語と英語がそこそこできるのだが、どうしても他の言語にうまく訳せない言葉というのがあって、このタイトルもまさにそのうちのひとつだ。この曲の完璧なまでのイントロに解放や希望、そして未来を強く感じる。あらゆる困難をしりぞけながら、自分自身の在るべきところ、還るべきところに向かっていくような、大げさかもしれないが、この曲を聴くとそんな気さえする。
もうたったのこれっぽっちの迷いもない私は迷走なんて決してしない。これからもずっと、くだらない大人にならないために死にもの狂いで闘い続けるだろうし、自分自身が目指すところに向かって旅を続けるだろう。なりふりかまわず、ただひたすら驀進あるのみ。その覚悟はできている。2004・12・23 ベネズエラ・シウダー・ボリバル(アドレナリン・エクスペディションズにて執筆)