最終更新日 2003/09/19
南米の中にある日本
<2002・11・12掲載>
2000年2月、ロサンゼルス空港で入国審査待ちの長い列に並んでいた私は初老の女性に声をかけられた。「日本人の方ですか?」すぐ後ろに東洋人の団体がいるのには気づいていたが、日本人だとは思わなかったので少し驚いた。これからラスベガスなどを観光するのだという。私はそのとき、陸路でアメリカからメキシコに抜け、さらにグアテマラまで南下して、そこでしばらくスペイン語を習うつもりにしていた。行先と目的を訊ねられてそう応えると、彼女は娘さんが日本語を習いに日本に留学しているのだと言った。彼らはアルゼンチンからのツアーだった。「日系人の方ですか?」私はさほど深く考えずに訊いた。すると彼女はきっぱりとした口調で言った。「いいえ、日本人です」
バブル景気にうかれた日本には南米からの出稼ぎが多かった。日本は外国人(もっと正確に言えば、外国籍を持つ人)の出入りに厳しい国だが、日系三世までなら労働ビザがおりる。特に日系移民の多いブラジルからは日本のあちこちの工業地域にブラジル村ができるほどの出稼ぎラッシュだった。私の住んでいた町には工場が多く、やはりブラジルやペルーからの出稼ぎが多かった。中南米の文化に興味があったこともあって、仕事の後はボランティアで彼らに日本語を教えたり、スペイン語を習ったりしていた。
日本語教室での相棒は日系三世のブラジル人マルチェロ君で、スペイン語教室の先生は日系二世のアルゼンチン人グロリア先生。マルチェロ君の祖父母もグロリア先生の両親も九州の出身だ。二人とも血筋的にはまがうことなく日本人である。すぐに教室に来なくなってしまうペルー人に比べて、ブラジル人にはマルチェロ君のように真面目に日本語に取り組もうとする人が多かった。グロリア先生は大学の博士課程で日本文化を研究するかたわら、アルバイトでスペイン語を教えていた。ブラジルやアルゼンチン、パラグアイは農業移民として家族そろって移住してきた人が多かったため、日本人同士での結婚がごく自然なことであった。しかし、ゴム農園の契約移民が多かったペルー、ボリビアは単身で渡ってきた人が多く、同じ日系人とはいえ、かなり混血が進んでいる。
日系人とつきあっているとよく"血"というものを感じる。彼らは日本ではなく南米の、それぞれが生まれた国の文化に育まれてきた。ラティーノはいつも今のために今を生きようとするが、日本人は先のために今を生きようとする。親はどんなに苦労をしても子に教育を受けさせようとし、子はラティーノの楽観的思考と明るさをそなえながらも誠実で真面目で勤勉である。日本人の血が濃いほど、この傾向は強くなる。彼らの中に流れているのは、良くも悪くも彼らの家族が発った当時そのままの日本なのだ。
パラグアイとボリビアではいくつかの日本人移住地を訪ねた。日本から来た日本人を南米生まれの日本人たちは温かく迎えてくれた。本当はこんなとこには来たくなかったんだけど、夢見る兄弟に連れられて仕方なく来たのよと笑う、一世のおばあちゃん。30年前に出稼ぎに行った日本は人が冷たかったけど、それでも行ってよかったと思っていることや最近は出稼ぎ帰りの若い人が日本の日本人の悪い影響を受けてきて、挨拶しなくなってしまったことなどを話してくれた二世のおかあさん。たまにスペイン語とおじいちゃん、おばあちゃんの使う古い語句が混じるものの、ごく普通に日本語で学校でのできごとを話してくれた三世の子供たち。ここにいるのは島国根性の名残で少し排他的ではあるけれど(なんせ彼らは日本人以外の現地人を「ガイジン」と呼ぶ。"ガイジン"との結婚はもちろん歓迎されない。)、義理堅く、親切で礼儀正しい、古きよき時代の日本人である。
ボリビアではおよそ日本人らしくない風貌の日系人にも何度か出会った。移住の歴史の長いブラジルではすでに日系五世にまで達している。彼らはもはや日本人とは呼べないだろう。しかし、たとえ日本語が話せなくても、彼らが自分たちの中に流れる日本人の血を誇りにしていることと日本と日本人に対してとても親しみを感じていることは確かだ。
ペルーでは5年前に土石流災害にみまわれたサンタ・テレサという村に行った。高台にある集落以外は線路も温泉施設もすべて流されてしまったサンタ・テレサにフジモリ大統領が直々に視察に来たという。テント生活をしていた人々にはその後すぐに家が建てられたそうだ。ティティカカ湖の中にあるウロス島、タキーレ島、アマンタニ島に太陽発電システムをつけたのも彼だ。それまで島には電気がなかった。僻地に行けば行くほど、彼の功績が多く残っている。私が日本人だとわかると人々はいつも同じことを訊く。「セニョール・チノ(東洋人氏の意。フジモリ大統領のこと。) はいつ戻ってくる?」
「月曜日から月曜日まで働く」と日系二世のフジモリ大統領に言わしめたのは、まさしく彼の中に流れる日本人の血なのだと思う。半世紀より前に地球の裏側から船ではるばるここまで来ようという決意は並み大抵ではない。開拓はマラリアなどの疫病や害虫、猛獣の脅威との闘いであり、原生林は緑の地獄だったと聞く。南米にいる日系人はそれに勝ち抜いた、性根のすわった日本人の子孫なのである。
2002・10・31 ペルー・クスコ(ペンション八幡にて執筆)