最終更新日 2006/11/02
グアテマラへの道
オーストラリア・ケアンズ→スペイン・マドリッド
日本人というものはふつう英語を習得したがるものである。私もそんな日本人の一人であった。日本人女性というのはヨーロッパに憧れるものである。だが、私はヨーロッパには興味はなかった。ただ、スペインとイタリアをのぞいて。はまってしまったら帰ってこれなくなるのではないかと、いつも思っていた。だから、行ってはいけない禁断の国だったのだ。スペインは。
しかし、グレートバリアリーフに潜れるからという理由で、たまたま行ったケアンズで幸か不幸か、スペイン人とホームステイするはめになった。まさか、オーストラリアでスペイン語を聞くとは思ってもみなかった。聞いた瞬間に、英語よりも自分に向いているのではないかという予感がした。そして、その響きは忘れかけていた、日本でのある光景を呼び覚ました。
ある日、急に体調を崩して、救急病院に行ったことがあった。その日は、他に開いている病院がなく、待合室は急病者でいっぱいだった。すぐそばのエレベーターのドアが開き、診察を待つ人達の前を、寝台車に乗せられたむき出しの遺体が運ばれていった。日本人ではなかった。かたわらには、彼のボスらしき日本人と同僚らしき日系人がつきそっていた。同僚は、携帯でどこかに私の知らない言葉で連絡している。遺体は、きれいだった。血も泥もついていなかった。だが、病院で闘病していたようでもなかった。清拭された後なのか。事故か、突然死に見舞われたのだろう。工場の多い土地だ。日本に出稼ぎで来ていたのだろうか。不法滞在者なのだろうか。家族は、故国に残したままなのだろうか。いつか、呼び寄せるつもりだったのだろうか。もし、彼が日本語で身体の変調をうったえることができたら、日本語での指示が理解できていたら、異国で家族に看取られることなく、死なずにすんだのかもしれない。
きっと、その光景が私の背中を押したのだ。日本に帰ったとたんに、道を歩いていただけでスペイン人とホンジュラス人の友達ができた。何か見えない力が働いている。この流れに逆らってはいけない。スペイン語のクラスに通いはじめ、ペルー人のパートナーと語学交換を始めた。在日外国人に日本語を教えるボランティアのグループに入った。英会話にも通い、カナダ人のパートナーと語学交換を始めた。西語と英語づけの日々は1年続いた。
スペイン・マドリッド→グアテマラ・アンティグア
1998年9月5日、モスクワ経由でマドリッドに到着。9月中は私立語学学校に通った。10月から翌年6月までは学費の安いコンプルテンセ大学の外国人西語コースに通った。私立は指導が丁寧だが、学費が高く、長くは通えない。国公立は安いだけあって、1クラスは20人。ヨーロッパ人は文法を知らなくてもよくしゃべる。生徒一人一人が理解してるか否かに関係なく、授業はどんどん進んでいく。宿題と予習だけで毎日、ろくにテレビを見る暇もないほどだった。おかげでますます会話が伸びないという悪循環。このままスペインにいるよりグアテマラに行った方がいいかもと考え始めた。
グアテマラ・アンティグアは、中南米に派遣される青年海外協力隊が、派遣前に西語を勉強する場所である。つまり安全な環境で、安く、効果的に西語が習得できる場所なのだ。生活費は安いし、授業はすべてマンツーマン。もちろん授業料も安い。スペインもヨーロッパの中では比較的安上がりだが、それでもグアテマラとは比べものにならないほど高い。
渡西前の予想に反して、スペインにはまりこそはしなかったが、今となってはスペインは私にとって大切な国であり、スペイン人は愛すべき人々である。まだ、パンプローナの牛追い祭にも行ってないし、トマト投げ祭でトマトまみれにもなっていない。バスクにもガリシアにも行っていない。なによりまだ夏のスペインを体験していないのだ。アンティグアでもっとしゃべれるようになって、またここに帰ってこよう。
ちなみにスペインは日本なみに英語が通じない。英語は、渡西後まもなく、まだスペイン語が全然わからなかった頃、シティバンクに口座をつくるときに使ったきりだ。アムステルダム経由で帰国したので、しばらくオランダにも滞在したが、その時は役に立った。アムスのユースで知り合ったメキシコ人と、メキシコかグアテマラでの再会を約束した。そうだ、ホンジュラスの友達にも会いに行ってみよう。
中米グアテマラ→旧宗主国スペイン→南米チリ
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そんなこんなで2000年2月から9月までアメリカ・ロサンゼルスから陸路で南下し、中米、主にグアテマラに滞在した。結局、うまくなったのは旅行に必要なサバイバルスペイン語だけのような気もするが、中米に行ってみてわかったことがいくつかある。
まず、旧宗主国の肩を持つわけではないけれど、やっぱりスペイン語は少なくとも最初のうちはスペインで習ったほうがよいということ。なぜなら、スペイン本国、もっと限定すればカスティージャ・レオン地方のスペイン語はどこよりも美しく発音され、どこよりも早口であるから。中南米の、特に原住民の多い国で話されるスペイン語はとにかく遅い。スペイン人に言わせると、「コロンビア・ペルー・エクアドルのスペイン語はまだマシ」なんだそうだ。ということは逆に言えば、「(原住民の多い)グアテマラ・ボリビアあたりのスペイン語はひどい」ということになるのだろう。グアテマラあたりでおっとりゆっくり話されるスペイン語に慣れた耳には、スペインのこれでもかというほどの早口はかなりつらい。実際、スペイン人の言っていることが聞き取れずに聞き返している出稼ぎ中南米人をスペインでよく見かけた。(マドリッドで住んでいたアントンマルティンは家賃が安いので、中南米からの住人が多かった。だいたいそんなところに住んでいる日本人はそうはいない。)
スペイン本国のスペイン語と中南米のスペイン語との間にはいくつか決定的な違いがある。まず、動詞の活用。スペインは6活用だが、中南米は5活用。中南米には、vosotros(君たち、お前たち)の活用がない。国によっては、vos(tuと同様に君、お前という意味だが、tuよりももっと親しい感じがする。)を加えて、6活用と言えなくもないが、このvosの活用はスペインにはない。さらに中南米では、完了形をあまり使わない。スペインでは当然、現在完了で言い表されてしかるべきことでさえも中南米では過去形ですましてしまう。まあ、言わんとしていることはわかるけれど、現在完了と過去では当然、ニュアンスが異なるわけで、tuがちゃんとあるのにもかかわらず、なぜかtuの複数形であるvosotrosの活用がないのと同様、かなり違和感がある。
ところで、日本語でオーガズムに達することを”いく”というけれど、英語では”It's coming.”。つまり、何だかわからないが何かが”来る”のである。それでは、スペイン語ではどうなるか? なんとスペイン語は”走る”のである。これなんかも、スペイン人はきっとベッドの上で、”Has corrido ya?”(もういっちゃった?)なんて現在完了でパートナーに確認していそうだが、中南米人は”Corriste?”(いった?)と過去形で訊いていそうだ。こんなときに過去形使われたんじゃ、余韻もへったくれもありゃしない。たとえば、日本語の語彙数が8万だとすると、英語は5万、スペイン語が3万だと聞いたことがある。英語やスペイン語で日本語ほどのニュアンスが出せないもどかしさを感じるのは、ネィティブスピーカーでない所為だけではないのである。そもそもスペイン語には鼻水と鼻くその区別すらないのだから。だからこそ、ちゃんと完了形を使って少しでも自分の言いたいことに近い表現をしたいと思うのだけれど。
スペインに行く前、在日ホンジュラス人にスペイン語を習いにスペインに行くと言ったら、「スペインでスペイン語を習うのは、イギリスで英語を習うようなものだ。英語のスタンダードがアメリカ英語であるように、スペイン語のスタンダードはもはや中南米のスペイン語だよ」と笑われた。英語を習いにニュージーランドとオーストラリアに行ったことはあっても、イギリスにはいまだに行ったことがない。しかし、ニュージーもオースも共にイギリス連邦であるし、アメリカにはまったく行く気にもなれない。ホンジュラス人の彼が言うように世の中の主流から外れているのかもしれないが、それでもイギリスの英語とスペインのスペイン語が好きなんだな。(とはいうものの、現在、私の話すスペイン語はすっかり中南米に感化されているので、vosotrosの活用が落ちているし、やたらと示小辞の”to”をつけてしまう。)
要するに、同じ言語でも国によって異なるのは当然のことなのだ。言葉はその話されている生活環境に左右されるものなのだから。となると、今度は国ごとにどう違うのかとどうも気になりだした。幸い、近い将来戻るつもりで残しておいた貯金がスペインにある。2002年1月1日からスペイン通貨ペセタはEU通貨ユーロに切り替わる。通貨統合直後は一時的に上がるだろうが、アメリカが落ち着いてドルが上がれば、ユーロはおそらく下がってしまうだろう。ペセタの現金の手持ちもある。中米で使い切らなかったドルのTCもまだある。スペインに戻りさえすれば、そこから先はなんとかなる。おりしも日本は大不況。明日のことはわからないが、行けるとき、行っとけーとまたも軽い腰を上げてしまった。
いつものごとく金はなく、いつものごとく予定は未定。グアテマラだけのつもりが、いつの間にやらえらいことになってしまった。前回は北米アメリカから中米まで南下したが、今回は南米チリから行けるところまで北上することにした。さて、グアテマラまで無事たどりつけるのか。途中どこかで沈没してしまうのか、はたまた資金が尽きてどこぞのジャパレスで働くはめになるのか。乞うご期待!
なぜかパラグアイ
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再びグアテマラ目指して北上中、一杯のラーメンがきっかけでいきなり就職が決まってしまった。仕事のオファーがあるなら、そこそこ勝手知ったるメキシコかグアテマラだろうと予想していたが、なぜかパラグアイ。日系人が多いのだから仕事があってもまあおかしくはないのだが、意外な国に定住することになった。しかも期間非限定。しかし、パラグアイ。…暑い、ひたすら暑い。海もなければ山もない。ウルグアイとセットになってるみたいな名前でどっちかどっちかよくわからんが、パラグアイとは先住民グアラニーの言葉で「鳥の冠をかぶった人々の国」、ウルグアイとは「鳥の住む川」という意味であるらしい。まさかグアラニーで給料をもらうとは思ってもみなかった。円建てでもドル建てでもなく、よりによってグアラニー建て。お世話になる会社は日系とはいえ、パラグアイ企業。もちろん従業員はパラグアイ人の方がはるかに多く、日本人だけ給料ドル建てというわけにもいかないという事情がある。それにしても2002年6月末に来たときは1ドルG5500だったのに、ラ・パスからバスに乗ること4日でやっと戻ってきた2003年1月15日はG7100!おいおい、破綻寸前のアルゼンチンペソだってもちなおしてきてるっていうのに暴落するにもほどがあるよ。しかも、大統領官邸が維持費捻出できず売りに出ているらしいし、ちょっと前にたった一度非常事態宣言が出たせいで公用パスポートで中南米に住んでいる日本人は”危険”なので当分パラグアイには入れない。本当にそんな国に住んでいいのか。
救いはある。思い通りにはいかないが悪いことばかりでもない。まずパラグアイ人は人がいい。インカ面のうそつきどもと一緒に仕事をするのとはわけがちがう。そして、嫌というほどジャングルがある。これまで行ったジャングルで一番すごいのはなんといってもボルネオだが(そのかわり見渡すかぎりに蛭がいる)、パラグアイの赤土の上の濃い緑のジャングルもなかなかいい。やはり人間は視界の範囲内に緑が必要なのだと思う。百姓がつくりたいものを好きなだけつくれない国は危ない。まして自給自足率の低い日本のような国はなにを目指しているのか、どうなりたいのかさっぱりわからない。手前の食べるものもつくらずに半導体つくっていったいどうしようというのだろう。しかしそのおかげで、おまけにグアラニーが下がる一方なので勤め先の景気はかなり見通し明るい。確かにグアラニーはどんどん下がってはいるが、パラグアイは自給自足率が高く、イタイプーダムでありあまる電力を発電できる。アルゼンチンやベネズエラのように石油は出ないので唯一バス代は上がってきているが、物価はさほど変わらず安定している。メルコスール加盟国の隣国、ブラジルの製品はありがたいことに安くて質もいい。パラグアイは旧スペイン領でもちろん話されているのはスペイン語だが、まるでブラジルの田舎のようなのだ。アスンシオンからブラジルのサン・パウロ、アルゼンチンのブエノス・アイレス、ウルグアイのモンテビデオまでは各18時間。唯一ボリビアのサンタ・クルス・デ・ラ・シェラまでは距離的には一番近いはずなのだがボリビア側の道があまりに悪いので乾季は30時間、雨季ならだいたい3、4日かかるものの(どこから入ったところでボリビア国内の道は悪く、まともに舗装されているのはスクレ→ポトシ間とラ・パス→サンタ・クルス・デ・ラ・シェラ間ぐらいなもので、最も肝心な首都ラ・パスと商業都市サンタ・クルス・デ・ラ・シェラを結ぶ舗装道路はコカ栽培農家のストライキでしょっちゅう道路封鎖される。)、アスンシオンはどこに行くにも便利ではある。
仕事と呼べるような仕事はないにしても日本の方がはるかに金は稼げることはよくわかっている。しかし、同じ一日の1/3を捧げるのなら、たとえ現在給料が悪くても将来性のある方を選びたい。仕事の片手間にドルや円を稼ぐ方法だってある。ここでにっちもさっちもいかなくなったところで、メキシコの商工会議所に履歴書を送ればいいだけのことだ。とりあえず住むところと仕事はある。というわけでグランチャコの果て、アスンシオンで新しい生活が始まった。
そして旅は続く
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理由あって仕事を辞めることになった。賃金はともかく、仕事は面白かったし、辞めたくなかった。クビになったわけでもない。しかし、とにかく旅を続けることになった。ジェットコースターのような通勤バスにも、バリエーションに乏しいパラ飯の社員食堂にもせっかく慣れてきたところだったのに。とても残念だが、仕方がない。きっと放浪する星の下に生まれついているのだろう。
アスンシオンでブラジルビザをとった。ドル払いはできないので、G375000をブラジル銀行に払った。ブラジルビザはドル建てで50ドルするが相場に時差があり、現地通貨で払うとずいぶん得をしたり、損をしたりする。アスンシオンのブラジル領事館では1ドル=G7500で計算しているが、時価は1ドル=G6850なので、この場合はずいぶんと損をしている。おまけにペルーのビザを更新するために30分だけエクアドルに滞在したのがあだとなり、黄熱病の注射を受けることになった。アスンシオンの厚生省直轄のところで受けたら、やたらとうまい注射で全然痛くなかった。しかも無料でちゃんとイエローカードももらえて助かった。これで10年は黄熱病にかかることのない身体となった。しかし、マラリアは怖いのでやっぱり蚊に刺されるわけにいかないことにかわりはない。
なにが困るってブラジルはポルトガル語なのである。スペイン語ではないのである。確かにスペイン語がわかるとポルトガル語もイタリア語もなんとなくわかるが、なんとなくわかったようでやっぱりわからないということも多い。まあ、なんとかなるでしょ。ラテンの国さ。さようなら、パラグアイ。こんにちは、ブラジル。待ってろよ、グアテマラ。目指すはアメリカ・ロサンゼルス。トラベルジャンキーからトラブルジャンキーとなりつつある、きょうこのごろである。
ブラジルで七転八倒
ブラジル・サルバドールでとんでもないことになった。スペインで首締め強盗に遭っても、ペルーで取調室で警官5人に取り囲まれても、ボリビアで暴動にまきこまれても動じなかった私が人目もはばからず泣きわめいた。悔やんでも悔やんでも悔やみきれなくて、狂ったように自分の身体を叩きつけながら泣いた。いつだって現実を上回る悪夢なんてない。サルバドールに着いたときには、パラグアイの仕事を辞めたことも、ブラジルに来たこともすべて無駄なこととなっていた。人というものは手前が幸せになるためには、善人面をしたまま、かくも浅ましく他人を欺き、裏切り、だますことができるものなのだと知った。悲しみと憎しみで歪んだ心で他人を殺してやりたいと初めて感じた。
もう旅なんてどうでもよくなった。それどころか、どこに足を踏み出せばよいのかさえ判らなくなってしまった。しかし、現実問題として1ヶ国に滞在できる日数は限られているし、とどまった分だけ滞在費がかさむ。今回、日本を出て1年半が過ぎていた。旅することに疲れてきてもいた。2003年4月1日にパラグアイ・アスンシオンを出て、ブラジル、ギアナ三国を2ヶ月で抜けた。ほとんど消化試合のような旅だった。
5月31日、ベネズエラに入った。パッカーの間で、人が悪いと悪評高い国だけあって、いきなり5時間も軍に拘束され、パスポートを取り上げられ、それと引き換えに賄賂を要求された。くそ畜生! 人がこんなに凹んでるっていうのに。こんなわけわからん金なんか払ってたまるか。上役の命令でペーペーの若い軍人が私を密室に連れこみ、まずは婉曲に金をたかってきた。言葉がわからないふりをして、同じ言葉を三回彼に繰り返させ、少しの間をおいて言った。「ということは、あなた方は乞食のように私に金を恵んでくださいと頼んでいるのですね」「なんだって?」彼は驚いて訊き返した。「乞食みたいに金をせびっている」ともう一度よく聞こえるように言う。
腐っても軍人であり、男である。女から乞食とまで言われて、屈辱を感じないわけはない。ぶん殴りたければ殴ればいい。もう失うものはなにもないのだから、怖いものなんてなにもない。一歩だって引くものか。「私は中国人ではない。(ベネズエラでは中国系移民は賄賂でことを収めようとする。ベネズエラ人に中国人と日本人の区別はつかない。)誇り高い日本人である。だから、こんな不正な金は払わない。こんなことをして恥ずかしくないのか。あなた方、ベネズエラ人にももっと誇り高くあってほしい」と言うと青二才は「上司と話してくる」と席を立ち、しばらく経ってパスポートを手に戻ってきた。パスポートを手渡しながら彼は言った。「君が正しい」
ぐだぐだに弱っているときでさえも闘わなければならないのはかなりつらい。
そんな中、カナイマ国立公園に行った。サンタ・エレナ・デ・ウアイレンから5泊6日でロライマ山をトレッキングし、シウダー・ボリーバルから3泊4日のボートツアーでエンジェルフォールを見た。
テーブルマウンテン、ロライマ山の頂上面積は280平方キロメートル。屹立した崖の上に広がる、標高2810メートルの世界は下界から隔絶している。長い年月をかけて風化し、さまざまな形に削られた岩の上に、この孤高の土地だけに生き残った数千におよぶ固有種の植物が巣食う。天気は分刻みでめまぐるしく変わり、日が射したかと思えば、雨が降り出すということを絶えず繰り返している。そこに広がる殺伐とした光景はおよそこの世のものではなかった。
そして、エンジェルフォール。あれはもう滝ではない。そんな普通名詞の範疇におさまるようなものではないのだ。アウヤン・テプイ山頂に降った雨季の雨が、凄まじい量にまとまって天界から絶えず滑り落ちている。その怒涛のような天上からの放水は、悠々と遥か979メートル下まで粉のように散らばっていく。それは水というよりもはるかに雪崩に近い。遊覧飛行時、セスナが大きく機体を傾けて旋回した瞬間、滝が落ち始めるところから霧散して丸い虹が出ているところまで、その全長が目に飛びこんだ。あまりの神々しさに圧倒された。地上にいる間もあまりの凄さに滝から目が離せなかった。
だから、エンジェルフォールを気がすむまで眺めていることにした。この聖なる流れが負の感情をすべて洗い清めてくれることだろう。きっとまた元気を取り戻して、中米への北上を続けていけるようになるだろう。7月いっぱいはコロンビア、エクアドルをまわり、8月からカナイマで現地ガイドをやることに決めた。
コロンビア・エクアドル迷走
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幸いコロンビア・エクアドルでは常に同行者に恵まれた。しかも、揃いも揃ってみんな酒飲みばかり。ほとんど飲めないのに「これが飲まずにいられるか」という心境だったので、つられてとにかく飲んで飲んで飲みまくった。酔った勢いで「ろくでなし〜、ろくでなし〜」と鼻からピーナッツをとばしたり、いきなり泣き出したりとまわりにどえらい迷惑をかけまくった。
世界最高峰の活火山コトパクシ(5896メートル)に登るも強風のため、登頂できず。ボリビア・ラ・パス、ペルー・クスコなど高地での滞在が長かったおかげか、高度障害もなく、ありあまる体力を持て余したまま、不完全燃焼に終わる。これが天候に恵まれて山頂で朝日でも拝もうものなら、ずいぶん救われたのだけれど。
エクアドルの旅を終え、再びコロンビアに向かうため、無念でキトに戻った私の手首からミサンガが切れて落ちた。なんかいいことあればいいなと心の底から願った。
ベネズエラで七転八起
よくないことは続くものである。はるばるコロンビアから戻ってきたというのに、観光客が激減してカナイマでの現地ガイドの仕事はなかった。それどころか、今いるガイドも減らしているらしい。とはいうものの、仕事がまったくないというわけではなく、シウダー・ボリーバルの旅行代理店での仕事ならあるという。
自然に囲まれて涼しいカナイマでの三食寝床付ガイドと暑くてたまらんシウダー・ボリーバルでの完全歩合制の仕事では、雲泥の差だ。でも、ガイドの仕事がないと聞いてもまったく気落ちしなかった。ここしばらく心臓をわしづかみにされてざらざらした壁にこすりつけられるような思いばかりしていて感情が壊死していたし、ラティーノのあくまで楽天思考に基づく見通しがあまりあてにならないこともだいたい予想がついていた。
ベネズエラにとどまることなく旅を続けるにしても、問題なのは肝心の中米が雨季であるということだ。しかも、ずっと移動続きでかなり消耗している。まだ行ったことのないパナマ、コスタリカ、ニカラグアをすっとばして、グアテマラまで一気に飛んでしまうと、後々で後悔しそうだった。こんなときはどうしても動きたくなるまで動かないのが一番だ。暑くて退屈なシウダー・ボリーバルに雨季が終わるのを待って2ヶ月もいれば、嫌でも出たくなるだろう。
すでにエンジェルフォールに関する問い合せがたくさん来ていた。日本からの予約も何件か入っている。直接ガイドはできなくてもシウダー・ボリーバルでいろいろ手伝いはできそうだ。南米で知り合った友達が何人も、私がいる間に来てくれると言っている。だから、きっといいことある!と強く思いこむことにして、10月末までシウダー・ボリーバルにいることにした。
2年4ヶ月ぶりの帰国
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結局、トリニダード・トバゴやコロンビアに出国し、日本行きのチケットを手にしてベネズエラを出たのは3月のこと。コロンビアでは800ドル盗まれた。ここまでついてないと思わず笑ってしまうものだ。なんの根拠もないのだが、これで嫌なことはすべて底をついたような気がしていた。怖いもの? なにかあるだろうか。この3年足らずの間に正気と狂気の境、そして生死の境までも行って戻ってきた。失うものさえないのだから、怖いものなんてなにもない。だからこそ、なんでもできそうな気がした。なんだってだめでもともとなのだから。
失業率がたかが5パーセントに届きそうなくらいでがたがた騒ぐな。そんなもの、コロンビアに比べたらたいした数じゃない。青木が原で首吊る前にボリビアにでも行ってみろ。ポトシで働く先住民のもっと深い絶望感を思い知るがよい。それに比べたら、日本の、東京なんざ、ベタ凪の海みたいなものだ。その証拠に、久しぶりに帰る東京は外国人であふれかえっていた。彼らが働くところがあるほどなのだから、この国にはまだまだチャンスが転がっているはずなのだ。
2004年3月3日に帰国して5月25日に出国するまでの3ヶ月足らず、なるべく多くの人と会って話をした。ラジオに、テレビに、雑誌に出た。連載も共著の企画も取材の話ももらった。帰国してすぐにつくった100枚の名刺は出国するまでになくなった。ベネズエラのシウダー・ボリーバルで働いている間、50人以上の日本人が訪ねてきてくれた。名古屋・京都・東京でやったオフ会には50人が来てくれた。メールマガジンは毎週1200人が、サイトは毎日300人以上が読んでくれている。まだまだやれる。がんばれる。煽るような風が吹いているのを感じている。
思いがけずフィリピン
2004年5月25日、3ヶ月足らずでまた出国。行き先はフィリピン。久しぶりの非スペイン語圏。久しぶりのアジア。マレーシア、インドネシアには行ったことがあるが、フィリピンは初めて。小さな島が集まっている国は好きだ。ルソン島オロンガポで3ヶ月、週に2日3時間だけ日本語を教えた。授業は金曜日と土曜日なのでそれ以外はずっと旅に出られるのだが、日程に制約があるとやっぱり思うように動けない。今までのような好き勝手な旅はもちろんできない。
わざと「ロンリープラネット」を買わずに「地球の歩き方」だけを持っていった。フィリピンには島が7109ある。そのうちのどこまでを「ロンプラ」が網羅しているかは定かではないが、3ヶ月でしかも最長4泊5日しか旅できないのだから、「歩き方」をはるかにしのぐ情報量にかえって翻弄されてしまうだろう。契約終了後もさらに3週間いても、ルソン、ブスアンガ、ボラカイ、ミンダナオ、セブ、ボホール、パラワン島にしか行けなかった。
アジアにしてはあまりごはんがおいしくないという欠点はあるものの、安近短にもかかわらずこんなにも日本人に知られていない国はないだろう。そういえば川口浩探検隊はフィリピンばっかり探検していたような気がする。海はきれいだし、ジャングルは深いし、ほどほどに治安も悪く、いかにも私好みの国だった。思いがけず近場でおもしろいところを見つけてしまった。帰りにあまったペソでロンプラのフィリピンダイビング&シュノーケリングガイドを買って帰った。また来る気満々である。
滋賀→東京
10月はパラワン島のジャングルで負った傷が膿んでリンパ腺が腫れ、熱が出て入浴できず。12月は病気で1週間入院し、1ヶ月自宅療養。さすがに手術前はすっかり弱気で、初めて自分から占いに行った。友達の紹介で会った占い師さんは、「あなたは元々健康で運が強い。途中、他の仕事をすることはあっても、今の仕事で必ず成功します」と断言した。ああ、やっぱり。今までどんな人が私のことを見ても、不思議とすべて同じ結果が出るのである。たとえ時間はかかっても突き進み続けてさえいれば、自ずと道は開けるに決まっているのだから当然といえば当然かもしれない。
2004年10月から翌年の2月までほとんど月1回5日ペースで実家から上京していたけれども、いいかげんもう限界だった。受験に失敗して東京の大学への進学は叶わなかったけれど、それからさらにそれまでと同じだけの年月を経てやっと東京に出る決心がついた。日本から海外へ飛ぶよりも、関ヶ原の向こう側に住むほうが私にはよっぽどハードルが高かった。18歳のとき、「東京に呼ばれれば行けばいいけれど、お呼びでもないのに行くのはやめよう」と思った。
日本で、東京で、どこまでやれるだろう。世界中どこでも楽しく暮らせるから、ほどほどに肩の力も抜けてがんばれそうだ。