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最終更新日 2003/04/18

 ボリビア<その10>

ボリビアぶらぶら8<サンタ・クルス・デ・ラ・シェラ/コロニア・オキナワ/コロニア・サン・ファン>

トリニダー

ルレナバケの入国管理事務所にはヒロセさんがいた。トリニダーで泊まった宿にはタナカさんがいた。二人とも日本に出稼ぎにいったことがあるので日本語が達者だ。ラ・パスの食堂で相席になったミナガワさんとはスペイン語で話した。みんな見かけはまるっきりボリビア人なので、そうといわれなければ日系人だとはわからない。ルレナバケ、トリニダーのあるベニ州は、ペルーに渡航した最初の移民の一部がアマゾンのゴム景気を追って1899年に日本人が初めてボリビアに移住したところだ。第二次世界大戦以前の移住者の子孫が多く住み、特にベニ州リベラルタ市では人口の一割の5千人が日系人である。ボリビアは南米で一番早く日本と移住協定を結び、これは日本にとって初の移住協定となった。

 

サンタ・クルス・デ・ラ・シェラ

ルレナバケからラ・パスに戻らずにサンタ・クルス・デ・ラ・シェラに行くのはけっこう大変だった。まずルレ発ラ・パス行きで分岐点ジュクモへ(3時間半・Bs.20)。人が集まらず2時間待って、乗合トラックで49キロ先のサン・ボルハ(1時間半・Bs.12)へ。サン・ボルハで1泊した後、トリニダー(プリメーロ・デ・マヨ社・11時間・Bs.50)へ。ベニ自然保護区を通るので景色がよく、鳥やカピバラも車窓から見える。サン・イグナシオで昼食休憩後、雨が降った。ボリビアでは長距離バスのことをフロータ(flota)と呼ぶのだが、まさに道の悪いボリビアにぴったりの呼び名だ。雨はすぐに止んだが、その程度の雨でも未舗装の道は泥沼と化し、バスは泥の上をフロータ(flota=浮く、浮かぶ、漂う)した。何度もスタックし、そのたびに乗客は全員、泥道に降りなければならなかった。おかげでトリニダーまで通常8時間のところ、11時間かかった。見るものもなく、物価も高く、蒸し暑く、どぶだらけで蚊が多いといいとこなしのトリニダーで1泊。普段、トリニダー−サンタ・クルスのバス代はBs.30〜80で変動するが、ちょうど日曜日の夜行だったため、Uターンする乗客でいっぱいで安くならなかった。10時間(Bs.50)でやっとサンタ・クルスにたどりついた。ルレからサンタ・クルスまでバスに乗っている時間だけで26時間、バス代だけでBs.132かかったことになる。

首都ラ・パスからボリビア第2の都市、商業の中心サンタ・クルスに行くには幹線道路もある。もちろんちゃんと舗装されているにもかかわらず、そちらのルートもなかなかハードなのだ。なぜならコカ栽培地帯のど真ん中を通るため、コカ栽培農家のストライキでしょっちゅう道路封鎖されるのである。コカ栽培農家のバックにはコカイン密売組織がついていて、彼らを裏で操っているといわれている。2003年1月13日、2度目のサンタ・クルスに行く途中、エントレ・リオスで道路封鎖にまきこまれた。乗っていたバスは投石され窓ガラスが割られ、道路に放置された傷害物で足止めされたすぐ先で軍と農民が衝突し、4人死者が出た。バスの外では催涙ガスがまかれ、乾いた発砲音が何度も聞こえた。それでも渦中というのは意外と混乱していないものだなと思った。この道路封鎖のおかげで6時間足止めを食らった。こちらのルートはラ・パスからサンタ・クルスまで道路封鎖にまきこまれなければ18時間、日によってバスのクラスも料金も異なるが、カマという寝台用の座席のバスでBs.80だった。

 

 9月24日広場 こんな街中にナマケモノ 木と同化している

サンタ・クルスは標高437メートル。アンデスではないボリビアだ。長らく交通の便が悪く、孤立していたため、混血していないスペイン人がいまだに多い。サンタ・クルスの一番のみどころはナマケモノ。街の中心、9月24日広場にいる。しかし、あまりに木と同化しているため、なかなか見つけられない。おすすめの食べ物はクニャペ。マンジョウカ(別名ユカ、キャッサバ、タピオカ)という芋の粉、アルミドンとチーズでつくったパンで、パラグアイのチパ、ブラジルのポン・ジ・ケイジョと似ている。特に焼きたてが柔らかくておいしく、マンジョウカのもちもちした食感がたまらない。道路封鎖のとばっちりでサンタ・クルスでゆっくりしている時間がなくなり、赤提灯が目印の焼鳥屋ケンの店に行くことができず、残念だった。

 

コロニア・オキナワ

サンタ・クルスにあるスーパーマーケット、スーパーおきなわはコロニア・オキナワの農牧総合協同組合が経営している。コロニア・オキナワへは、サンタ・クルスからコレクティーボでまずモンテロ(Bs.6)へ。モンテロで乗り換え、コロニア・オキナワ(Bs.7)へ。1954年、アメリカ統治下にあった沖縄県から農業移民第一陣がうるま移住地に入植。その後、風土病などの問題のため、二度の移転の末、1958年頃コロニア・オキナワに落ち着いた。現在は、第3移住地まで発展している。海外で日本の地名がついているのは珍しい。学校、病院には日本語で名前がついている。いかにも沖縄的な造りの建物があったので食堂か、宿かと思ったら、普通の民家だった。サンタ・クルスからオキナワまで、そしてオキナワの中はボリビアとは思えないほど道がよい。メインストリートを歩いていると日本語で書かれた張り紙を見つけた。「ブエノス・アイレス買物ツアー348ドルより」これまで敷居が高かったアルゼンチンは経済危機でボリビアから買い物旅行ができるほど安くなっている。日系人の人口は800人あまりなのだが、農業移住地は広い畑と畑の間に人が住んでいるので、なかなか住んでいる人ととっかかりがつかめない。日ボ協会の図書室で日本語の本を閲覧させてもらい、その夜は”あいのり”も泊まったことがある、日本人経営の宿にお世話になった。

オキナワ日ボ協会

オキナワ診療所 沖縄風の民家

 

コロニア・サン・ファン

コロニア・オキナワからモンテロに引き返し、ヤパカニ行きのバスをサンタ・フェ(Bs.7)で降りる。サンタ・フェでコレクティーボに乗り換え、コロニア・サン・ファン(Bs.5)へ。サン・ファンは1955年西川利通による西川移民の入植に始まり、現在日系人の人口は800人あまり。こちらは長崎県をはじめ、九州出身者が多い。メインストリートでは赤飯やおはぎを売っている。日本食の食堂が2軒。イトウ食堂は休みだったので、UTOPIAでNHKを見ながら長崎ちゃんぽんを食べた。海外では日本食もどきのなんちゃって日本食が多いが、さすが長崎出身者が多いだけあって、ボリビアにいるのを忘れるほどおいしいちゃんぽんだった。UTOPIAにはカレーパンやアンパンもある。サン・ファンではポンカンもつくっているそうだ。コロニアにいるとノスタルジックな気分になる。私が知らない、昔の日本はきっとこんな感じだったんだろうなと南米で思った。

 

東京通り サン・ファン日ボ協会 移民資料館 

 

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